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煙草と火の話

かふぇいん

 

著名な作家やライターには愛煙家が多い。彼ら曰く煙草を吸うことでアイディアが湧いてくるそうだ。確かに椅子にゆったりと腰掛けてノンビリとパイプを味わっていると考え事が捗るような気がする(悲しいことに私の場合気がするだけだ)。思うに煙草の持つリラックス効果に加えて「火を使う」という行為が大いに関係しているのでは無いと思う。

少し前に(今もかもしれないけれども)焚き火がちょっとしたブームになった事があった。都会の喧騒を逃れ、自然の中で焚き火を囲む、と言うものだ。確かに焚き火や暖炉の火を眺めているとなんとも言えない落ち着きを感じる。そう言えばアロマキャンドルなんてものもあった。専門店が存在するくらいだから一定層の人間に必要とされているのだろう。

思えば人類を人類たらしめているのは火である。火と道具、そして言語の使用によって人類は他の動物とは一線を画する存在となり得た。原始の昔から人間は火と共にあった。アフリカの祖先達から21世紀の今まで、火は無くてはならない物であるし、それを囲んでやって来たのだ。前世紀までヨーロッパの家庭には暖炉が、日本の古民家には囲炉裏が当たり前にあった。

 

物語は焚き火から生まれた、という説がある。焚き火を囲んで語らう内に自然発生的に発生したのだ、と言うことだろう。確かに古今東西の作品を眺めてみると老人が語る昔話を焚き火や暖炉を囲んで聞く、と言う内容のものが散見される。例えばコンラッドの「闇の奥」では真っ暗闇の中ボンヤリと光るパイプの火の描写があるし、映画でも多くのシーンで火が印象的に扱われる(アラビアのロレンスのマッチの様に)。昔話に火は欠かせない。火には人々に物語をさせる不思議な魔力があるのだろうか。

煙草を楽しむという行為はごく小規模な「焚き火」だと言えよう(特にパイプの場合はその傾向が強いだろう)。そう考えると多くの作家が物語の創作に煙草を必要とした訳が見えてこないだろうか。

現代においては火は触れる機会がめっきり減ってしまった。暖房器具の多くは火鉢や囲炉裏、暖炉から石油ストーブを経てエアコンになってしまったし、風呂も薪木からガス焚き、そして電気になってしまった。庭先でゴミを燃やすという事も環境問題への配慮や火事の危険性から多くの自治体で禁止されてしまった。最早最後の砦はガスコンロくらいだろうがそれもオール電化の流れで消えつつある。鍋をする際のカセットコンロですら電気式の時代だ。

 

しかしどんなに文明が進んだとしても、火と人間は数千年来の仲である。本能レベルで炎というものを欲しているので無いだろうかと思う。

勿論今更ロウソクやオイル、ガス灯を照明に使うのは効率、安全性の面から言ってとても現実的では無いし、昔と違って環境問題が叫ばれるようになった現代において薪や石炭を燃料に使うことは難しい。

そう考えると煙草というのは火と人間を繋ぐ最後の糸なのでは無いかと感じてしまう。確かに火から脱しつつある現代においては火を使う喫煙は「前時代的」かもしれない。下手をすると野蛮な行為になるかもしれない。しかし近代的社会が「性的快楽」を否定しつつも決してそれを満たすビジネスが無くならないのと同じように「火」を求める人間の欲求も決して無くなるものではの無いのでは無いだろうかと思ってしまう。祭りなどの伝統的行事においては未だに主役の座を張っていたりするし。

なんと言っても「世界最古の職業」よりも付き合いは長いのだ。。何かと「クリーンと安全」を求める現代においては「火」は次第に嫌われ者になりつつあると言っても、人類の成り立ちから考えて簡単に離縁できるような関係ではなかろう。

この小さく個人的な「焚き火」の楽しみを享受するほど、炎を神聖なものとして崇めた古代の人々への共感を覚えると同時に「プロメテウス」に感謝せざるをえないのである。

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